古戦場に立ち、歴史ロマンに思いを馳せる

画像

今日の歩数…… 3437歩
今朝の血圧……132―74
今夜の血圧……110ー68
母親が入所している特養の近くの公園に『木村重成の墓』が在ります
そして川を隔てた目と鼻の先には『山口重信の墓』が在ります
残念ながら全く歴史には疎いので、木村重成も山口重信も知りませんでした
そこで、少し調べてみました
木村重成は、大坂冬・夏の陣で活躍した大坂方の武将だそうです
豊臣秀頼に仕え、1614年(慶長19年)大坂冬の陣では11月26日の今福・鴫野の戦いで功を上げ、1615年(元和元年)の夏の陣では5月6日の河内若江の戦いで藤堂高虎・井伊直孝の軍と相まみえ、奮戦むなしく戦死しています
若干23歳の若さでした
重成はこの若江の戦いに臨んで、兜に香をたきしめていたということで、『討死を覚悟して挑んだ稀世の若武者である』と、徳川家康を感動させたとの話が伝わっています
当地にある墓は1765年(明和2年)重成150回忌に当たって、重成を打ち取った彦根藩士安藤重勝の子孫安藤次輝が建立したのだそうです
150年の月日が経てば、敵も味方も無くなるのですねぇ

一方、山口重信は大坂夏の陣で木村重成とこの若江の地で戦い、戦死した徳川方の武将です
この墓は1647年(正保4年)重信の33回忌に建てられています
墓石正面の銘文には若江堤の戦いの様子が、幕府の大学頭である林羅山の文章を石川丈山の篆刻で刻まれています
上部に2尾の龍が彫られており、デザイン的にも貴重な墓塔とのことなのです

徳川勢の山口重信の墓は33回忌に建てられ、豊臣勢の木村重成の墓は150回忌に建てられるとは、随分と違いが有り過ぎると思いませんか
これは、大阪人の『徳川嫌い』から来ているのでしょうねぇ
近くには木村重成の名前を冠した通りまで残っていますが、山口重信の名前は何処にも使われていないようです
上方講談の、先代旭堂南陵先生は『徳川家康を罵る会』という講談の会を主催していた程です
戦記物が多い講談の世界でも『秀吉贔屓~家康嫌い』が大阪の大衆には受けた~という事なのでしょうねぇ
ところが、同じ講談でも東京の講談では徳川家康は『神君家康公』と神様になっています
大阪と東京では、エライ扱いに違いが有るようです
因みに、山口重信の墓が中央から折れて砕けてしまった事が有り、『これは、木村重成の怨念だ』と騒ぎになり、重信の墓を横向きに、重成の墓は後ろ向きにしたのだそうです
かつて敵同士として戦った2人の武将の墓が、川を挟んでいるとは言え、僅か数十メートルの位置に建っているというのも不思議ですねぇ

いま僕が立っている此の場所が、かつて両軍の兵どもが戦った古戦場だと思うと、歴史に疎い僕でも歴史ロマンに思いを馳せてしまうのです

写真は、木村重成の墓

画像

"古戦場に立ち、歴史ロマンに思いを馳せる" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント